今日ものんびりと ”死にたい”から”死ななければ”へ














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”死にたい”から”死ななければ”へ

はいさい!今日は散発に行ってきたツバサさー。
チョキチョキv(`・ω・´)v
窓際の少女 今日ものんびりと 2015/02/28
概ね完成かな。
概ね完成なんだけど、やっぱり直したいところもちょこちょこあるから、
多分もう少しかかるかもしれない(/・ω・)/
後はこの子の後ろの方にも影を追加してみたの(´・ω・`)

3月は内閣府の自殺対策強化月間なんだって。
何だかサイトが出来ていたからちょこっと見てみた。
最初は誰しも”死にたい”から始まると思うんだけど、
理由は様々だろうけど、実際に最初から”死ななければ”と思って行動する人はいないと思う。
段階がある、といえばいいのかな。

最初は自分も”死にたい”だけだったけど、徐々に実際に何かするようになってね。
最初は”死にたい”だけなんだけど、思想ってその内に行動を伴うものになってくるから、
リストカットなり、首吊りなりをするようになるんだと思うなー。
自分も遺書とか道具も揃えたり、実際に何度か吊ったりしたけど、
何だかんだでまだ生きてしまっていて。
最近は特に行動もしてないけど、また始めたいと思っていたりしてね。

随分と待ったけど連絡もなさそうだし、よく耐えたと思うんだよね。
11月から全然何もしていない訳だから、随分と耐えたしね。
別に救われたいとかそういう感情がない訳じゃないんだけど、
全員が全員、死にたいから解放されたいと思っている訳ではないんだよ。
だって、自分の問題はどうにもならない問題であるからして、
待っていても好転する訳じゃないし、別に死んだっていいじゃない。

よく身近な人に相談するように言うが、
そもそもそれが出来るのなら、誰も死なないんじゃないかな。
それに相談したってどうにもならないと思うけどな。
一時楽になるだけで問題の先送りなんだよ。
それで救われる人もいれば、どうにもならない人もいる。
それは現実問題として理解すべきだと思う。

薬なりなんなりで緩和することはできるだろう。
だが、緩和しても根本的に解決できないのなら意味はない。
他に打ち込めることが見つかっても、死にたい原因が消える事はないし好転することはない。
死ぬなとは言うがいつまで待てばいいのか、いつまで耐えればいいのか。
ただの消耗戦ではないか、そう思う。
世界は都合よく自分を救ってはくれない、優しくはないのだ、決して。

待つ?完全にすり潰されるまで?
読んで頂きありがとうございました!

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関連タグ:絵のお話 イラスト 色鉛筆 メンタルなお話 死にたい 自殺

こんにちは♪

女の子のバックの影でかなり変わりますね^0^
もうちょっとで完成なんですね٩(๑´0`๑)۶

散髪行かれたのですか?ツバサさんなら美容院のイメージでした^^
髪が変わると少し変われた気がして、新鮮な気分になります♪

そうですよね。身近な人に相談ってなかなか
難しいですね。いくら親しくても言えない事もあるから。

かと言ってそれほど親しい友人よりも会ってなくても
言える相手だとか・・信頼関係かな?そういう人がいても
なかなか死の相談はできないですよね。
自分の中だけで考えてグルグル回って、結果は出ないまま~(>。<;)

そんな事ってありますよね。
[ 2015/03/01 07:46 ] [ 編集 ]

それでも

その原因がなくならなくても、
新しい事に希望を見いだせる事もあると思うのです。
それは、忘れる事ではないと思います。
もうそんな事ない、と決めつけては…
変わる事は、いけない事ではないのでは?
[ 2015/03/01 07:46 ] [ 編集 ]

人生谷あり山あり

人生谷あり山あり

谷がやって来るたびに死んでいたら

命がいくつあっても足りません。

弱さは危険ですよね。
[ 2015/03/01 11:18 ] [ 編集 ]

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このコメントは管理人のみ閲覧できます
[ 2015/03/01 13:09 ] [ 編集 ]

すいませんが一言

自殺する人には悪いんですが、それは唯の生きるという義務を放棄した
負け組だと俺は思っています。

だって、この世には生きたくても生きられない人なんてごまんといます
病気で余命宣告された人や日本だから思いますが他国に行けば
戦争で避難した難民の子供たちはいつ空爆や敵襲が来るか不安でしょうがないでしょう明日死ぬかもしれませんしね、明日の飯すら食えずに死ぬ子…
日本という国に生まれて飯の心配や命の心配はほぼ気にしないでいいのに…
自殺するなら、その明日まで生きられない人に寿命をくれてやれと言いたい。
そして病は気からと言います、マイナス思考をし続けばそりゃーねってなるよ。
後ね自殺したらね、自分は良いかもしれませんがその後周りにすげー負担というか
迷惑がかかるんですよ(経験談

かくいう私の家族にも1人居たんですよ自殺した人が…その所為で
色々精神的にも物理的にも迷惑をかけたのは…
厳しいこと言ってますが、自殺は自己満足かつ立つ鳥跡を濁しまくる
周りに多大な迷惑をかけるということ覚えてください。
[ 2015/03/01 13:27 ] [ 編集 ]

コメントありがとうございます!

yume-miさん
最初はバックの影も付けないでおこうかと思いましたが、
結局は付けておくことにしました(笑)
後はちょこっと手直ししたら完成すると思います^^

いつも実は1000円カットなんですよ~(笑)
美容院には行ったことがなかったりします(*ノωノ)
本当に髪を切ったり髪型が変わるだけでも、
少し変れた気がして新鮮な気分になりますよね~、髪切りマジックですね~。

身近なだけに言えない事、そんな事も出てきますしね。
なんでも相談して欲しいなんて言われますが、
実際には人に言えない悩みの一つや二つはあるものですしね(><。)

信頼関係があっても、話の内容が内容なだけに、
どうしても死の相談は難しいですしね~。
1人で抱え込むのは避けるべきなのかもしれませんが、
仰る通り、自分の中だけで考えてしまって、結果も出せないんですよねorz
自己完結できればいいのですが難しいですね。
[ 2015/03/01 20:01 ] [ 編集 ]

コメントありがとうございます!

TYPE MM04さん
原因の完全な消滅というのは何事も難しいものですが、
仰る通り、新しい事に希望を見い出せればいいんですけどね(´∀`;)
楽しい事や嬉しい事があっても、
どうしても天秤にかけた時に、その原因を上回ってくれないんですよね。
原因さえ上回れるような事があるのならまた別なのかもしれませんが……。
自分自身と向き合ってさえ、変わるのは難しいものですが、
何か切っ掛けさえあれば、なんて思うのですがなかなか切っ掛けはありませんしねorz
変わって行けるというのなら、それは悪しき事ではないですしね~。
[ 2015/03/01 20:06 ] [ 編集 ]

コメントありがとうございます!

マフィンさん
本当に人生は山あり谷ありですね~。
どうしても乗り越えられない事、ダメな事って誰にでもあると思うんですよね。
何事もなく谷を上り下りできればいいですが、
そうそう上手く行ってくれませんね(´∀`;)
[ 2015/03/01 20:08 ] [ 編集 ]

コメントありがとうございます!

鍵付きコメント・Sさん
仰る通り、死んで楽になるというのは確かにその通りだと思うんですよね^^;
Sさんのように何か新しい楽しみや体験が出来るから、
死なずに生きてみようと思うというのもいいですね~。
人間は探求する生き物だと思いますから、どんな体験であれ、
見てみる、聞いみるという動機で生きているというのもいいと思いますよ(´∀`)
[ 2015/03/01 20:12 ] [ 編集 ]

コメントありがとうございます!

三号機さん
どうもお久しぶりです(´∀`)

個人の見解に対しては特に口を挟む気はありません。
誰かに強要しない限り、負け組だと思っているのならそれでいいと思います。
個人的には無理に生を強要するのは狂人のやる事だと思っていますけどね^^;

よく同系列で語る人がいますが、
自殺したい人と生きれない人間を同系列で語るというのは非情にナンセンスだと思います。
自分から死を選ぶ人間と生を選べない人間を並べても、
状況が近しいのならともかく、そうでないのに比べる事に意味があるとは思えませんね。
そもそも、比べる事に意味があるのか疑わしい限りです(´∀`;)
生きるべきと言って他人と比較するのであれば、
そんな無意味な事に時間を割く位なら比較する前に手を差し伸べるべきでしょうしね。
自殺するために命の譲渡が出来る世界ならそうする人もいるんでしょうね~。
マイナス思考をしたいからしているのではなく、
そうならざるを得ない状況に追い込まれているから、そういう考えに至るのでは?
最初からそんな考えに憑りつかれている人はいませんよ。
迷惑が関わるから死ぬのがいけないというのであれば、
まずは本人に寄り添って死の原因から取り除くように動くべきですね、
何もしないでいたというのであれば批判する権利ありませんね。

迷惑、迷惑と言われますが、
自殺するほど追い込まれていた人間に何もできていないのであれば、
誰であっても非難する権利はないですよね。
周りに迷惑がかかるからとだけ言って、
本人に我慢だけを強要するのは人の尊厳を貶める行為にしか感じられませんね。
その自己満足の死に至るまでに止められない程度の言葉ならば、
どんな言葉をかけても無駄でしょう。
[ 2015/03/01 20:29 ] [ 編集 ]

善悪の彼岸(ニーチェ)

 自殺もそうですし、善悪の基準は論証不可能ですものね。

 自殺が正しいか、間違っているか、ということは、論理によっては証明できません。

 だから、「不安」になりますよね。

 もしも、「絶対に生きなければならない」というふうに証明できるとしたら、ツバサさんもこんなに悩まなくて済んだことでしょう。

 なので、「自殺はダメ」というのは論理的ではなく、非論理的なものとして現れていますね。「理由はない。だけれど、自殺してはいけない」ほとんどの人はそういうのです。

 そして、理由がない、こうした生き方の法則のことを、「道徳」と呼びますね。つまり、自殺の禁止は、道徳であって、論理ではないんですよねえ。

 そして、実際に、ツバサさんのように「生」の問題についてよく考えていらっしゃる賢い方が、「自殺は悪いことではないのではないか?」と考えるのだとすれば、そこにはそれなりの理由があるのでしょうね。

 不安の強い人というのは、一般的に思慮深い人のことです。思慮に時間を費やす分、不安が強くなったり、行動のスピードがゆっくりになったりしますが、思慮深いというのは、誰が何を言うまでもなく、一概に悪い資質ではありませんね。

 世のなかには、ツバサさんのように不安の強い人もいれば、ツバサさんほどには不安を感じない人もいると思います。

 不安を感じない人は、思慮が少ないですが、その分、行動力があって、いい所もあるのですが、どうしても自分とは違う思慮深い人の持つ「不安」の強さは理解できないと思います。

 世のなかには繊細な人も、鈍感な人もどちらもいて、どちらも大切なのですが、やはり違った人間同士がぶつかると、齟齬や誤解が生じて、哀しくなってしまったりします。(逆に、誰かと思いを共有できると、うれしくなります。)

 ツバサさんの考える通り、「生きることは無意味だ」というのは、私は完璧に同意します。

 ただ、ツバサさんもわかっていらっしゃる通り、「自殺することもまた無意味だ」ということも念頭に置く必要があります。

 もしも、自殺に意味があるとすれば、私たちは自殺する為に生きていることになります。その場合、人生に自殺するという「意味」が生じてしまうので、生きることに意味があることになってしまい、どうしても、「生きることは無意味だ」という主張と矛盾してしまうのです。

 生きることも無意味で、自殺することも無意味、と考える以外には、選択肢がなく、そうすると、一体どうすればいいのか、皆目見当がつかない、のです。

 そのまったく、何も決定できない状態が「不安」となって現れるのだと思います。

 生きることも死ぬこともどちらも無意味だとすれば、生きる価値も死ぬ価値もないのです。

 ならば、私たちは、生きることもせず、死ぬこともせず、「第三の道」を進む以外にはないのですが、その第三の道は、「死ぬことでも、生きることでもないもの」と記述する以外にはなく、そんなものは論理的には存在しないはずなのです。なぜなら、私たちは生きるか死ぬかのどちらか以外には選択肢を持っていないはずだからです。

 したがって、論理的には存在しないはずの、「生きることでも死ぬことでもないもの」、つまり、「非論理的な何か」に向かって、進む以外には、論理的には解決方法がありません。

 つまり、私たちの人生は、「論理的には非論理的になる以外に道がない」という、なんとも皮肉な構造になっております。論理を徹した結果、非論理的にならざるを得ないというのは、何とも不思議な事です。

 論理的な態度のことは、「証明」と言います。それに対して、非論理的な態度のことは「信心」と言います。

 したがって、私たちは、生きるのでも死ぬでもない、しかも論理的に証明できない、従って、言葉に表す事のできない「非論理的な何か」を「ただ信じる」ことが唯一正しい道であるということになります。

 そして、その「何か」を私たちは信じる以外にはなく、永遠に知ることがないのです。

 従って、唯一正しい道は、「生きもせず、死にもしない」ことです。そして、私たちはこれを知ることはできず、信じることしかできません。

 なので、生きることでも、死ぬことでも、神でも、人間でも、恋でも、友だちでもないもの、「何でもないもの」を信じることがもっとも理にかなった方法となります。

 さて、もしも運よく、私の言うことがツバサさんに上手く伝わったならば、ツバサさんは自分の悟ったことを他の人にも教えたくなるかもしれません。

 ただ、良くも悪くも、全ての人間が必ずしも論理的に思考ができるわけではありません。既成観念にとらわれず、自分で論理的に思考できる人というのはむしろ、少数派でしょう。

 ですので、世の中には、ツバサさんの持つ不安が理解できない人の方が多いのです。(世のなかには、不安のおおい人と不安の少ない人、つまり、繊細な人と鈍感な人の両方がいるのです。)

 だから、ツバサさんが正当なことを主張すれば、(自殺が間違っているとすることはできないという主張など)、論理的に考えず、それに感情で反発する人の方が多いのです。

 したがって、残念なことですが、他人の攻撃を効率的に回避するためには、ある程度、正しいことを言わずに、間違ったことに妥協することが必要になります。つまり、「わからないふり」をするのです。

 だから、ツバサさんがただしいことを言えば、それに対して思慮のない無責任なことを言う人は必ずいるのです。

 そして、それはしょうがないことで、世の中にとっては、そう言った無責任な人たちも非常に大切なものなのです。

 なので、もしも私の言うことが上手く伝わったならば、ツバサさんの体験した「何か」については、あまり人に言わない方がよいでしょう。

 逆に、もしも私のことがいうことが分からなかったなら、それも別に悪いことではありません。その時は、ツバサさんはツバサさんの道を行かれるのがよろしいでしょう。私の言うことに縛られる必要は全くありません。

 ですので、よくわからなかったら、気にしないでくださいw

 ではでは~♪

 長文失礼しました~☆
[ 2015/03/02 18:19 ] [ 編集 ]

コメントありがとうございます!

ササクレさん
どうもお久しぶりです(´∀`)

自殺も何でもそうですが、人類共通の普遍的な善悪がない限り、
仰る通り、善悪の論証自体が不可能ですからね~。
個人の中に限れば、善悪の区別もできますが万人に決して当てはまるものではないですしね。

確実な判断が出来ないだからこそ「不安」というものが生まれる。
「絶対に」という言葉があってもそれを受け入れられるのなら、
「不安」や「悩み」の完全な払拭もできるかもしれませんが、
残念ながらそういう「絶対に」というものはなかなかないですもんね^^;

万人が納得できる理由があればともかく、
そうではないのならどうしても「理由はないけど」になってしまうんですよね。
道徳は大事にされるべきもの、人の生きる上でのひとつの指標になるので、
あってもいいものだとは思いますが、道徳は道徳以上でも以下でもないので、
論理のように使う事は出来ませんしね。

誰にもその考えに至った理由というものがあるはずで、
僕も例外に漏れず、こういう考えに至った理由があります。
程度はあるにしても誰でも考えたりする時間というのは少なからずあると思うので、
一人ひとりが持っている答えには、必ず理由があるんですよね。
思慮深いのが悪い性質も持っている気もしますが、
それが役に立つこともあるので、本当に一概には言えませんよね~。

同じ種類、思考パターンの人ばかりではないので、
本当に色々な人が世界にいますね。
人がもっと理解し合える、それこそ理解するように努めるようであればいいのですが、
悲しい事に違う種類の人間が考えた事は理解し難く、
一歩間違えばそれが火種にもなりもしますね。
考えでの個性というのがあるというのは非情に多様化している証拠なので、
素晴らしく思いますが、齟齬や誤解が生じるのは多様化ゆえの哀しみですね。
多様化は人の可能性の一つであるはずなのに、それを生かせないというのは悲劇的です。

「生きる」と言ってもそこから色々な解釈が生まれますし、
生と死、どちらも無意味に感じるという解釈もできますからね。
どんな風に意味を取るか、個人の裁量に任せるほかはないのですが、
やはり矛盾を孕んでいるのは確かですね。
その矛盾すら凌駕できるのが人間なのかもしれませんが、
立ち止まって矛盾について考えられるのもまた人ですしね。

明確な答えがない、どうすればいいのかは自分で決める事ですが、
答えがないままならそれは「不安」にしかならないんですよね。
どれに意味を見い出すか、価値とは何か、
例え矛盾を孕んでいたとしても答えを決めてしまうのか。
何かを決めるというのは難しい事ですね。

人の良いところは可能性の獣であるという事だと思います。
動物であれば生か死か、どちらかですが、
人ならば第三、第四と道を見つけられるのもまた可能性があるからこそだと思います。
生き物であれば生きるか、死ぬかだけであっても、
人ならば違う道すら切り開いていける、それが人間だと思うのです。

人は考え出せる、作っていける、例えそれが存在しないはずのものであっても、
進んでいけると僕は信じています。
論理、非論理も人がまた生み出したものではありますが、
それすらも超えていけるのが可能性の獣たる人なのだと思います。

人は人以上の存在にはなれませんからね。
信じる以外にはなく、知る事も出来ない。
信じるという不安定な言葉が理由や意味を人に見い立たせる原動力になりもしますが、
万人に当てはまる真理を知ること出来ませんし、信じるという行為のみになってしまうんですよね。

自分の考えや悟った事はどこかで教えたくなるのが人ですからね。
それが受け入れられるか、それとも別の結果になるかはともかく、
生きているという事は何かを発信していく、
それが言葉であれ、作った何かであれ、外に放出されていくものだと思うので、
人の考えを遮るのは難しいと思います。

色々な人がいるのは先刻承知ですが、
相手がどんな人であっても理解できなくても、
理解しようとする事、理解をしようとする努力は誰にでもまた出来る事であると思っています。
思いを伝えるというのは人の可能性でありますし、
その「伝える」という行為に攻撃性を伴わなければ「完全」には無理でも、
理解し合えると思っています。
そもそも、伝える事に「否定」や「攻撃性」を持たせることは必要な行為ではないと思うのです。
それが出来ない人間もいますが、それでも変わって行ける人の可能性まで捨てたくはないのです。

無思慮な人間とはどこにでもいますが、
だからといって自分が我慢する必要はないと思っています。
世界を構成している一人であるのならば、
もっと活発的に意見するというのはもっとも大事な所であると考えています。
言葉という武器があるのですから、例え分かり合えなくても、
分かり合う努力までやめてはただの獣です。

円滑に人との関係を築く、あるいは攻撃の対象にならないという意味では、
人に言わないという手段もあるというのは分かります。
それが言わないという選択に足る事なのか自分には分かりかねます。
個人とはもっと強く存在しているべきものだと思うので、
言わないという選択をするのが人なら、また外に発信していくのも人なのでしょうね。

今回は凄い長い文章でしたね~(><)
打ち込まれるのにさぞ苦労為されたと思います、
お疲れ様でした~。
[ 2015/03/02 22:19 ] [ 編集 ]

ツバサさんへ☆

死にたいと思う程の試練に合ってるって事は、ツバサさんに乗り越えられる器があるから(*^^*)

人には、乗り越えられない試練はやって来ない。

凄く辛い経験があるぶん、価値のある存在、素晴らしい人だという事。

私もどうしようもなく辛くて仕方無いこともあるけれど、前を向いて笑顔で感謝いっぱいにしていれば、自ずと幸せになれる。

そんな自分を、見て誰かが幸せな気持ちになれるなら、やっぱり嬉しい☆

なんて、考えてます(*^^*)

[ 2015/03/03 21:35 ] [ 編集 ]

コメントありがとうございます!

ここめぐりさん
どうも初めまして~(*´ω`*)

よく神は乗り越えられる試練しか与えない、と言いますもんね~。
どんな試練であってもやってきたら、
それは乗り越えられるものだからという考えもいいですね♪

まずは自分が笑顔になるって大事ですもんね(´∀`)
誰しも色々な事を抱えているものですが、
やっぱり笑っているというのは大切な事だと思います^^

幸せの連鎖というやつですね~。
そんな素敵な連鎖がずっと続けばいいですよね( *´艸`)
[ 2015/03/03 22:29 ] [ 編集 ]

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